一番創作した年かも
1月から3月にかけて「ラッダイトだけはご容赦を」の第1部の執筆をして、その後に第2部のプロットを考えて、今も執筆中。
AVGも重い腰を上げて実装している。
AVGのテキストを仕上げた後に「ラッダイトだけはご容赦を」を書いたせいか、書き直したい衝動に駆られているのを我慢している。ひとまず、最小限の加筆修正で様子を見ようと思う。
手広くやろうとするほど、調べ物や壁打ち、仮説と検証をいかに早くやるかが課題になってきた。その課題の解決に生成AIが活躍し始めた。
生成AIの利用開始
Claudeの契約をきっかけにChatGPTとGeminiも併用するようになった。
利用開始時点から想像できないぐらいに発展していく様子を体験できただけでも元が取れたと思う。
与太話や軽い調べごとはChatGPTやGemini、本命はClaudeという使い分けをしている。
仮説と検証のサイクルは早くなったと思う。従来と同じ時間をかけていたとしても、質は上がったのではなかろうか。
今度は検証に時間がかかったり、仮説と検証のサイクルを捌けなくなったりしてきた。行動がボトルネックになった。
仮説の質を良くするには、前提になる問いや設計が重要になる。その設計の土台となる考え方を、思わぬところから得ることになった。
物語学の衝撃
あることをきっかけに大学で講義をしている人とじっくり話す機会が得られた。
原初の物語は何か、物語を支えるものは何かを掘り下げていくうちに人類の文化や言語の領域に踏み込んでいくのはなかなか面白かった。
膨大な量の情報が得られたので、じっくり読み直している。
「ラッダイトだけはご容赦を」の第2部はこのやりとりをもとに作り方が変わった。我流でやっていた部分に裏付けができて自信を持ったり、アラが見つかって考え直したりした。
前者について言えば、物語の最小単位は問題発生・対応・解消の3要素で良さそう。
後者は人間の心理描写が甘いこと。心理学のモデルを参考に肉付けする実験中。人間は難しい。
物語の源流は体験と思考を伝えることにあるのだろう。
何を通じて、何を思ったのかを意識する訓練が議論のあり方に繋がるから面白い。
議論のあり方
学び途中だけど、どうやって自然言語で建設的なやりとりをするかのヒントになる。
誤謬に関しては自分もやるので気をつけようと思う。
自分には見えているからこそ、前提の共有を飛ばしてしまう。だからこそ、当たり前かもしれないものでもいいから、とにかく共有すること。できる限り、相手のわかる形式にする。
議論の手順は定石だけど、テーマやゴールを共有し、それを知るため、あるいは実現するためにどうすればいいのか話して、最終的に意見をまとめることから始めるのが良さそうだ。
何回かやってから、良くするにはどのような方法があるかの話ができる。目標なしに改善案や理想像を出すと、不満の言い合いか、綺麗すぎる理想に向かって現実に着地しないから。
手段が増えると、どの手段が最適なのか考えることになる。かけた手間暇の分、返ってくるのかはよくある問いだ。その問いを深掘りすると、倫理の領域が見えてくる。
倫理学
よき隣人であるにはどうあるべきかを問い続ける学問だと思う。
今までの経験から、できることとやっていいことには大きな隔たりがあるのはわかっていた。その隔たりには何があるかを言語化する方法の一つだろう。
仕事柄、システムやデータに対して強い権限を持つことが多い。管理者権限があるから何をやってもいいのか、と言えば、答えは否。社内での合意は得られているか、目的や手順に透明性はあるか、責任の所在はどこか。これらをクリアして初めて安全に実施できる。
創作に関してもそうで、何を書いてもいいけれど、読者にどのような影響を与えるのか、あるいは投稿サービスなどにどのような影響を与えるのかは想像してもいいと思う。
技術の進歩と同じぐらいの速度で倫理も発展していることがわかったのも大きな収穫だ。
ノート
こうやって整理すると、今年学んだことが綺麗に繋がっている。
隣接領域を攻めて繋げたものもあれば、人から教えてもらって繋がったものもある。
人の繋がりと知識体系に百万の感謝を。