感受性が豊かな人というのは、日々の中にある小さな変化に気づける人なのだそうな。
いつも通っている道に植えられている花の蕾が大きくなり花を咲かせたとか、蝶がとか、蜘蛛の巣に雨水がついてきらきらと輝いていたとか。
言われてみれば、確かにそのレベルの変化は日常に溢れているはずだ。ただ単に見えなかったり興味がなかったりするだけで。
この感受性、どれだけきめ細やかに世界を認識できるか、とも言い換えられるのではないかしらん。感受性が豊かな人はきめ細やかに世界を認識できて、感受性の乏しい人は大まかに世界を認識する。
やたら主語が大きい話ばかりになるのは感受性が乏しい人が増えてきたからなのではないか、と思う。薄味よりも濃い味が好きな人が増えたとも言える。
そう言えば、自分の感受性ぐらい自分で守れ、と書かれている詩があったことを思い出した。自分のものだからどうやっていくかは自分次第なのだけど、自分の周囲の影響を強く受けるところもあって難しい。