道具は身体の延長という考え方がある。
車や自転車は足、眼鏡は目をそれぞれ強化するもの。コンピューターは記憶力や計算力を強化するもの。インターネットは伝達する力を大きく向上させるもの。
慣れれば手足の延長のように使える道具と言える。
数年で発展を遂げている生成AIは思考力や言語化能力を高める道具だろうか。今までの道具と異なるのは思考力や言語化能力を高めると一段、内側に入り込んでいること。
使っていいのかどうか悩むのも、使って溺れるのも自然なことのように思う。おそらく、大半の人にとって初めての経験だろう。話を聞いて整理する人間と会話した人間は、先に同質の体験をしているかもしれない。
自分の中にある曖昧なイメージやぼんやりとした不安が言語化されて、思考として扱えるものになり、具体的な行動がとれるようになるのは心地よさを覚えると思う。対象が不安だったら安心感もあるだろう。人間への相談なら、他者の言葉だと線引きができる。
生成AIが異なるのは、自分の言葉から連想し、別の視点や視座を提供できる点。今の生成AIに自己と呼べるものはない。でも、自己を感じさせる応答パターンは持っている。ここにシステムプロンプトに含まれるであろう人間を尊重しよう、傷つく表現は控えよう、が加わると何が起きるのか。簡単に言うと、自分と相性のいい人と話せる状態が簡単に作れてしまう。自分の考えを具体化するには大いに役立つけど、人格を見出して活用すると溺れる。
名前の通り、コードやビジネス文章、小説やイラストの生成もできる。コードやビジネス文章は割り切りができるのでおいておこう。自己表現の領域である小説やイラストに機械が入ってくるのを脅威と感じるのも自然な反応だろう。自分の領域を土足で踏み入ってくることへの恐れがより正確なイメージか。
実際、どのような課題があるのだろうか。これはいくつかの段階にわけて考えたい。
最初の段階のモデル学習だ。Webのデータをかたっぱしから学習しようという動きは減って、ライセンス的に問題のないデータを学習する動きに変わりつつある。信用できるサービスを使うのが現実的な解だろう。話がややこしいのは特定個人のデータを学習して模倣させる技術を悪用する人間の存在だ。被害が出ているなら法的な整備含めた対応が求められる。
次の段階は生成物の扱い。日本では人間が作品を作った場合、作った瞬間に著作物として認められる。では、生成AIを使った場合、生成物そのものに著作権は発生しないとみなされる傾向がある。ただし、プロンプトや生成物に人間の創作的な関与があれば、著作物として認められる可能性がある。割合がどれぐらいなのかは国や省庁によって判断がわかれている。今後の動向を見守るしかなさそうだ。
最後の段階は生成物を外部に公開するとき。ここが一番、ややこしいと個人的には思っている。他の著作物を侵害していないか考える必要がある。商業活動だけでも膨大なのに個人活動まで視野に入れると、対象は無限と言ってもいい。とはいえ、事前に確認するのは難しい。有名な作品と衝突していないか調べておき、もし、問い合わせがあった場合は真摯に対応するしかないだろう。この問題自体は人類が創作をはじめてからずっと抱えている。生成AIの登場で作品が作りやすくなり、多くの人が影響を受けやすくなった、と考えるのが妥当だろう。
生成AIは既存の何かを学習して作られているから、統計的によくあるもの、王道や王道の派生になりやすい。いかに自分の視点や価値観をプロンプトや生成物に反映して自分のものにしていくかが生成AI活用の重要な点だと思う。生成AIは自分の思考力や言語化能力を高める道具だ。だからこそ、創作性、オリジナリティを発揮する余地は広がったと思う。本来ならプロトタイプが必要な段階をいくつか飛ばして、生成物をもとに自分がなぜ面白いと思ったか、あるいは面白くないと思ったのかを深堀りしていけば、自分らしさというオリジナリティにたどり着けるのだから。